「アメリカン・リーダーシップ」

――その理念と教育をめぐっての1考察――

アーバン・インスティテュート研究員 上野真城子

このレポートは1999年10月に電通のプロジェクト資料としてまとめたものである。覚書以上のものではないが、内容は広く一般にも関心を持ってもらえるものと思われ、皆様にも読んでいただきたいので、電通のご好意を得て一部をここに掲載させていただく。

アメリカはこの世紀の橋渡しの時代において世界を先導する位置にある。そしてアメリカ文化も合わせて「アメリカ文明」ともいうべきものがあらゆるところに大きな影響力を及ぼしている。アメリカの指導性は、それへの嫌悪と反感の大きさからも照射されるほどに否応もない事実といってよく、そしてそれはアメリカン・リーダーシップによって現実に遂行されているのである。

今日本は独自のビジョンとリーダーシップを築くことを内にも外からも求められている。その中で日本的なるもの、アジア的なるものを基盤とするビジョンとリーダーシップへの待望は強い。しかし日本のリーダーシップはアメリカのリーダーシップと無関係に成り立たなくなっている。ここで問題になることは実は日本人の抱くリーダーシップおよびリーダー像とアメリカ人の持つそれらには大きな異なりがあり、理解にはまだ深い落差があるということである。その落差はそれぞれの文化と社会の価値観の違いと関わるので当然な側面もあるのだが、この理解の落差を埋めることは非常に重要な、日本にとって(アメリカにとっても)不可欠の作業である。

このレポートは、この理解のために必要な膨大な作業と努力の微々たる一端を担うものでしかないが、アメリカンリーダーシップのいわばポートフォリオ造りとしたい。ここではアメリカの中心的なリーダーシップ論を概観し、その社会システムとの関連と具体的なリーダーシップ教育と養成に関わる組織とプログラムを見、これらを通じてアメリカン・リーダーシップの理念と現実を探ろうとするひとつの試みである。

目次

アメリカ社会とリーダーシップ論

理念と史的考察

教育とリーダーシップ

学校教育、市民教育とリーダーシッププログラム

起業家教育

多元社会のリーダーシップ

1. アメリカ社会とリーダーシップ論

戦後50年を経て日本は国家を経済大国として見事に再建した。類稀な、貧困と格差ない、高品質の物質に恵まれ、安全な安定した均質平等社会を造り上げた。しかし今、その成長の活力が失われつつあり、負への転換の可能性に直面している。そして人々は国が荒海で海図なく漂流を始めていることに気付かされ、そして行く手を示す「リーダー」を待望しはじめている。

21世紀はグローバルな変動、変化、そして変革の時代といえる。だが、この変革において、国家の存在自体は容易に揺らぐことはない。21世紀はあらゆる国家において形成と再形成、再構築がなされ、様々な意味で国家の強化においての変革があるといっていいだろう。すなわちそれは国家間の攻防を伴うような変革強化ではなく−−−それでもまだ数多くの攻防は有り得るが−−−国の統治、より良い統治と統治能力の強化という意味での再構築と変革がなされることに特徴があるだろう。より良い統治:グッドガバナンスこそが世界の平和に繋がるはずであるということが20世紀の教訓のひとつであるからだ。

アメリカは今1945年以来今、もっとも確かに世界のリーダーである(The Economist, 1999)。アメリカは21世紀初頭、少なくとも世紀の橋渡しの時代に、その先頭に立っている。アメリカ文明は大きく世界を摂関しつつある。それは、それへの嫌悪と反感の大きさが示すように、否応もない現実といっていいだろう。このアメリカン・リーダーシップを無視することは出来ない。今日本が自ら探し、また求められているビジョンとリーダーシップは、このアメリカン・リーダーシップに無関係には成立出来なくなっている。にもかかわらず、日本はそのリーダーシップを真に理解しているとは言い難い。それは日本人の長く受け継いだリーダーシップとリーダー像とは相当に異なるものであるし、また日本の人々が待望するリーダーとは異なるものであるかもしれない。

戦略国際研究所(CSIS)は1999年4月にリーダーシップ・コロキアムを開催している。これは稲盛財団とScholl 財団が援助して行なわれたもので、CSISのアブシャイア氏は一連の日米賢者による相互理解と将来関係の高揚の努力の一つと位置付けている。この基調講演で稲盛和夫氏はリーダーシップにおける人間性、個人の人間資質を最も重要なものとし、二宮尊徳を例とし、仏教における人間形成の修養の精神を説いている。その中心は人間における啓発啓蒙、悟りへの道であり、精進、自戒、布施、悔恨、忍耐、禅などが究極的に優れたリーダーを生み出すものであろうとして、こうした資質を持つリーダーを得ることが次世紀にとって重要であると結んでいる。一方前ロッキード・マーティン社長、プリンストン大学教授のノーマン・オーガスティン氏は「リーダーシップということを、ビジネス、政府、学界、そしてチャリティー活動といったさまざまな立場から長く考えて来て、民主的な自らを統治する人々にとって、リーダーシップということの重要さに唖然とする」と語り、「ビジネスマンとして教師として軍役に関わる人として、リーダーシップということは極めて重要であり、そしてそれは市民としての我々の役割にとってことに決定的な重要性を持つことである」と前置きし、そこからリーダーの資質を検討している。この資質として彼は10点:資質(道義的強さ、インテグリティー)、ビジョン、能力、勇気、忍耐、動機付け、チームワークと無私、決断力、判断力、コミュニケーション能力などを挙げ、だが基本は愛であると結んでいる。

このコロキアムの2つの講演は明瞭に二つの国のリーダーシップ論を現していて、リーダーの資質を日本的な点からとアメリカ的視点から示し、相互理解に役立てようとしている。ことに日本的リーダー像の精神性がアメリカにも近代企業にも適応しうるものであることを伝えようとしている。日本からの発信を目指しているものと考えられる。そして確かに、リーダーの資質はいずれも一方にとって否定されるようなものではない。多くの共通点があり、加えていけばさらに優れたリーダー像が有り得るものである。しかしこうしたリーダーシップに関する議論が本当に何を成果とできたのかは、疑問である。未だ最終報告が出てはいないので、言及は出来ないが、厳しく言えば、これは多分日米の賢者がさらに知識を増やしたこと以上の成果はないのではないだろうか。なぜなら、現実の社会がことに今日本に必要なのは船長の適否を論ずることより前に、浮遊する船の錨をおろし、舵を造り付け、海図を造り、そして船長を育て選び出すことである。船を行方まで含めいっさい任せられる船長を待望することは無理があり、また危険である。

リーダーの人格、資質に比較文化的な論議がなされ、しばしばそれはリーダーを生み出し、教育し、出てきたリーダーを評価し、承認ないしは否定し、擁護ないしは批判する材料とされる。西欧と東洋の、文化の違いは相互の理解に取って欠かせない要素であるが、しかし現実の課題として重要なことは、各々の国の統治であり、その統治能力である。精神のよりどころとしてのリーダー、いわば、宗教的な信仰のリーダーが課題ではなく、統治、ガバナンスにおいてのリーダーが課題なのである。

これはオーグスティン氏が 前書きとして語っているところ、すなわち民主的な、自治を行なう国にとって、その市民にとって、リーダーシップはどれほど重要な問題であるかはある意味で驚くほどのものなのである。この数行の言葉は、アメリカ人にとっては自明の、民主主義、デモクラシーということを前提にして、それであるからこそリーダーシップが人々、まさに民主社会の市民にとって重要な課題であることを指摘している。しかし、日本のリーダーシップ論はこの民主主義とデモクラシーを前提にしてはいないのである。さらにいえば、デモクラシーへの疑義を根底として、リーダーシップ論が起こってくるといってもあながちの間違いではない。民主主義、ことにアメリカ民主主義が問題であるからこそ、その是正ないしはそれを「民主主義を超える理念」を体現するものとして日本的ないしはアジア的リーダー像が語られ、それへの理解を求めて比較文化論が使われる。ここにリーダーシップ論議の大きな落差のあることを指摘しておく必要があると思う。

議論のために:アメリカン・リーダーシップへのアプローチ

アメリカ建国理念とデモクラシー

ウッドロー・ウイルソンは「私はデモクラシーを信ずる。なぜならそれはすべての人間のエネルギーを解放するものだからだ。」社会にとっての偉大な資産はその人々の才能とエネルギーにある。しかしどの社会もまだそれを十全に理解し、またはその資産を十分に崇めてはいない。逆に実際、多くの社会はその才能やエネルギーを窒息させている。「人間の可能性を解放することは社会の目的とリーダーシップの目的の最も基本的なものといっていいはずである」としてデモクラシーを基盤にリーダーシップを語る。アメリカのリーダーシップ論において著名なジョン・W・ガードナーはリーダーシップをさらに大きな課題としての「集団の目標の達成」ということに準じる課題として考えるべきであるとしている。そしてリーダーシップだけを論じるのは不毛であると指摘する。「我々は猛烈な、そして複雑な問題を抱えている。これは永久に続く問題である。それらに対して、困難であろうとも、解決がないわけではない。しかし必要な資源を動かし、必要な犠牲に耐えるためにはわれわれのエネルギーを焦点を絞って振り向け、持続的な関与をしていくという能力が求められるのである。社会がバラバラに断片化、分断化され価値ある共通目的を持てなくなった時、社会はひどく発展を阻害されるだろう。もしわれわれの体制制度というものが新しい問題に立ち向かう適応性を持っていないとしたら、社会は弱体化せざるを得ない。すべての人間の関る制度機構というものは絶え間なく自身を更新させ生まれ変わっていかなければならない。」すなわち、アメリカのいわば「国のかたち」を求める過程があるからリーダーシップが必要とされるのである。

システムとしてのリーダーシップ

さらにガードナーが強調するのは今日の、アメリカのリーダーシップとは、単に偉大な個人の存在としてとらえることでなく、リーダーシップを発揮し実行する制度と機構を持たなければならない、すなわちリーダーシップがシステムとして社会に存在し、リーダーを生み出すシステムを持つことを認識すべきであろう。これは、変化の進度の急速な時代においてリーダーたちがどんなに個々として有能な人間たちであったとしても、今の問題を個人的に解決し得るだろうとは期待出来ないのであり、デモクラシーはその言義は「民を主とする力」であり、民を主とする統治制度を意味する。デモクラシーは人々の、人々のための、人々による、統治、政治の制度機構−行政、立法、司法の機関や、法人−−を造り、そしてそのシステムの中で、それを実践する執行者をリーダーとして持つものである。

アメリカ建国の父たちは継続的な更新のために優れてデザインされたシステムを手渡したと考える。ひとつは権力を抑えるように仕組まれた分権型の政治制度の整備であり、それが相互に拮抗し力を均衡させる機構である。これによって生み出される多元的な力は、分散した多くの主導性、多種の機構組織、多くの合い争う信念、多数の競合する経済単位の存在を奨励する社会的戦略である。権威主義体制においては権力と主導性の独占的な起源と、ひとつのイデオロギー、一つの正しい答しかない。この多元主義的システムでは、「市民は新しい形の組織を造ることが出来、人気のない考え方も言われ、宗教団体も彼らの深い信念を発表出来、学びの立派な組織は独立的に機能でき、そしてすべて多くのプロフィット、ノンプロフィットを問わずベンチャー冒険試みが繁栄しまた失敗することが出来るのである。この政治社会機構がアメリカの「国のかたち」を造る。

活発なる批判の伝統は社会の更新に不可欠である。国家は生命を与える批判から隔離されていることを求める愛国者市民によってはあまり救われない。また愛のない、こわすことは得意でも人間的組織が育まれ強化されそして繁栄するところの技術芸術に長けていない批判者によっても救われない。批判無き愛国者にも愛なき批判者も社会の更新は出来ない。芽生えの能力は個々人の種にある。社会のための創造の源はひとりの人にある。更新は個々の男女の新鮮さと活力から彷彿するものである。

もし社会が更新を望むならそこは創造的な男女をもてなす開かれたものでなければならない。そしてまたその社会は自己更新の出来る男女を産み出すような社会でなければならない。しかし社会の更新にしても個人の更新にしても更新には動機、関与、信念、人間の生きるにおいての価値、彼らの人生に意味を与えるところの「こと」によりけりである。すべての企てにおいて問われねばならないことがある。社会と組織の更新は誰かがそれを気遣う者がいて初めて前進することが出来るのだ。無感動と無関心、動機の低下はある文明が衰退する最も明瞭な特徴である。無関心からは何も生まれない。

開かれた社会の制度機構の整備そのものはなんら更新を意味するものではない。その徳はそうした制度整備が自由なる個人を育むということにある。そしてそうした個人こそが更新の無尽蔵の源である。あるリーダーは個人的にうまく問題処理が出来るかも知れないが、もし彼らがその過程を組織化制度化出来なければ、彼らがいなくなった後にはその機構は力を失うだろう。リーダーたちはシステムを造り強化しそしてリーダーシップ・チームを構成すべきであるというのが、ガードナーの主張である。 (Gardner, J. W. Self-Renewal: The Individual and the Innovative Society, New York: W.W. Norton Co. 1981、より)

2. 理念と史的考察

「アメリカンリーダーシップを支えるもの:理念、組織、人々」

−−自分の国を批判するとともに、これを慈しみ、心にかけなければならない。自分の国の欠陥を直視するとともに、その長所を強化しなければならない。古ぼけたビジョンの持つ偽善性に気づくとともに、新しいビジョンづくりに手を貸すことをためらってはならない。−−

ジョン・W・ガードナー

アメリカの社会を理解する上でこの社会の「リーダーシップ」を理解することは極めてじゅうようである。そしてその理解には、アメリカがデモクラシーにおいて国を造ることを発明した国であることを抜きにすることは出来ないのである。アメリカ的な「リーダー像」というものが、日本のリーダーシップとリーダー像−それがあるとすれば−と異なるのは、明らかに国の成り立ちの違いにある。しかしこの異なりは21世紀の日米関係に大きく影響を与える。にもかかわらず、日本人も又アメリカ人も、両国が基本的にデモクラシーによって成り立っており、それを追求し続けている同志であると考えており、デモクラシーについての論議と検証の必要はないと考えている、ないしはデモクラシーについて今更語るのは、「大人気ない」と考えている。このいわば問題の「無視」、落とされてしまう「見落とし」の気運は実は双方の国にとって大きな問題であるだろう。(デモクラシーが社会で語られることが日本においてどれほど少ないか、アメリカおよび西欧社会においてどれほど多いか。これは日本から外に出てみないと理解出来ない、大きな落差、違いである。)

(デモクラシーを「民主主義」と日本語に翻訳したのは、大きな問題であると思う。アメリカ人はデモクラシーを「主義」、イデオロギーとは考えていない。アメリカ人は「主義」すなわち-ismに対して、嫌疑を持つ。共産主義、帝国主義、独裁主義、社会主義、そしてリベラリズム、自由主義を含めて、主義というものを疑うところに、ことに現代のアメリカの健全性がある。一方で、日本人は、主義を嫌い、精神性を重視する。そして民主主義は、社会を共産主義に導く「主義」であるとして憚らない認識がある。ここで民主主義は国家主義と対立する構造をつくるという不毛のイデオロギー論争に陥ってきた。)

日本人から発せられる「今のアメリカに、尊敬され得る「経世家」リーダー層があるのだろうか」という疑問は、日本に伝えられるメディアを中心とする情報から見れば、当然出てくる、非常に率直直裁なものである。ことに現政権、クリントン大統領の個人の資質と道義性修養の欠如から見て、日本人はアメリカ人のリーダー像を疑うだろう。日本人にとってはリーダーが相当に精神的よりどころであり、宗教性が高いものであるからである。しかしアメリカの場合はリーダーの個人としての人格資質も問われながら、より以上に、デモクラシーというシステムを統括する人間としての役割と責任を問う、そうしたリーダーを造るシステムと不可分に結びついていることを確認しなければならない。

自らアメリカのノンプロフィット・セクターの理論的実践的リーダーであり、リーダーシップ論に深い考察をしたジョン・W・ガードナーは面白い問いをしている。

「アメリカが建国のとき、その人口はおよそ300万人であった。その中に6人の世界に誇り得るリーダー:ワシントン、アダムス、ジェファーソン、フランクリン、ハミルトンが生まれた。今、2億4500万の人口で少なくとも80倍、480人のワシントン、アダムス、ジェファーソン、フランクリン、ハミルトンたちがいていいだろう。では果たして、どこにいるのか。」

独立宣言(1776年)を書き、憲法(1787年)を造り、人権宣言を造り、そしてゲティスバーグ宣言(1863年)を造った、リーダーたちをモデルとして持っているということ、200年余りのアメリカの国家形成の歴史におけるリーダーシップである。アメリカのリーダーシップの今日において興味深いことは、強力なリーダーシップの存在と同時にリーダーシップの分権拮抗である。アメリカのリーダーとして実質的にも象徴としても最も多大な権力を行使するものが大統領である。しかしこの大統領の権限を規制しうる力を議会と最高裁判所判事が持っている。政治的リーダーシップと政策リーダーシップ、法的リーダーシップが憲法によって分散されているのがアメリカの国のかたちである。ことに最高裁判事に対する社会的な尊敬とその存在は非常に多きなものである。法治国家ということの意味がある。勿論、この最高裁判事を大統領が任命するということにおいては、大統領の権力が大きいことになるが、ここにリーダーシップにおける分権の重要な意味がある。

アメリカ社会はそれ故に様々なリーダーシップを育てようとする。リーダーシップは、日本で考えられるほどに、政治的リーダーのみに当てない。

しかしそれでも政治的リーダー、ことに大統領ということに大きな関心があることは確かである。そしてこれは21世紀になっても、さらにより重要性と関心を持たれるものになるだろう。

あなたが大統領であったなら:

アメリカの中等教育、中学、高校の社会科教育には、「政府」という重要な授業課程がある。この「政府」課程の中で、アメリカのデモクラシー、民主制度、すなわち、行政、立法、司法の分立を学ぶ。ことにこの課程では、子供たちは例えば大統領とは何を行なうのか、その責任と役割、議会と議員の役割、司法と裁判制度と判事、裁判官の重要性などを学ぶ。これは特に市民として政治社会参加の訓練として考えさせ、行動させる機会として使われる。すなわち、この機会に政党のも模擬大会や大統領の模擬選挙などをプロジェクトとして授業に取り入れることが頻繁に行なわれる。その教科書と副読本は、これらを知る一端として参考になる。

この世で最も大変な仕事:子供たちは憲法で規定された大統領の責務、すなわち軍の統制、最高裁判事の任命、議会への新法制の提案、連邦法の執行、国家間の条約制定という責務のあることを学ぶが、その上で、具体的に国家の統治にリーダーシップを行使するということを考えさせる。

様々な歴史的事例が挙げられて、例えばあなたがトーマス・ジェファーソンであったら1803年のルイジアナの処理をどうするかといった課題が与えられる。そこで○大統領権限、○憲法解釈、○選択肢とその利点と危険性、○議会説得、折衝、そして○政治決定手続きを考察させ模擬政治を行なう。そして中学生に、あなたはどう決断するかを考えさせる。そして質問はその判断と決断にはどのような課題が検討されたか、そして一つの決断にいたるまでの経過と選択において優先されるものが何であるか、そこにどうのようなあなたの価値観があるのかを問うのである。そしてその決定はデモクラシーにおいて正当なリーダーシップであるかを討論させるのである。

 こうした模擬的経験の上で、歴史的にもった偉大な大統領、偉大なリーダーとは誰であるか、それはなぜかを考えさせる。大統領の検証は一般に高い関心をもたれる事項である。ことにクリントン大統領弾劾が検討された1999年は、大統領職についての一般の関心を相当に高めたという意味で、アメリカの大統領制の歴史において記録されるものであるだろう。またアメリカのデモクラシーのレベルを知る意味においても非常に興味深いものである。ここではその詳細は触れないが、クリントン問題において、リーダーシップ教育をする中学校の教師と家庭の主婦からの当惑と批判を中心とした反応の大きさは、アメリカの市民教育とリーダーシップ教育の存在を示しているものと考えられる。

 

最も偉大な大統領:1983年12月に出されたthe Journal of American History誌はそれまでなされたものの中で最も徹底的な大統領の順位付け調査の結果を出している。これは970人の歴史家によるカーター大統領以前の大統領のランク付けである。偉大なる大統領の最上位はリンカーン、ルーズベルト、ワシントン、そしてジェファーソンとなっている。このトップ4人は多分現在も認められる最良のリーダーであるだろう。いずれもアメリカの国家の極めて重要な時点で国家を率いた人間たちである。ワシントンは憲法を政府の実際のシステムとした、ジェファーソンは連邦を拡大し、アメリカをミシシッピーからロッキーまで拡大した、リンカーンは合衆国を分裂から救った、ルーズベルトは大恐慌時に国を保持し、第二次世界大戦出の勝利に導いた。これらの大統領は行政府を強力に保持し、その影響力を強化しており、憲法で認められたその権力を拡大した。しかし強力なプレジデンシーがデモクラシーに沿うものか、議論される。アメリカ大統領は七つの領域 すなわち国家、行政府、外交、軍、立法、政党、経済の保護において、その首長、長官、司令官である。では優れた大統領とはどのような人間であるのか。

一つの読本では、ルーズベルトに代表されるリーダーの人間像が議論されている。そのユーモア、その勇気、国への愛と忠誠、その身体の障害にも関わらず、大恐慌下の国を浮上させ、日本の真珠湾攻撃からアメリカの揺らぎから救ったこと、損判断力と人々をまとめ、国としての融合をはかったことが彼の人格とリーダーシップの特質として挙げられている。

 

偉大な大統領:順位

 

Great

1. Abraham Lincoln

2. Franklin D. Roosevelt

3. George Washington

4. Thomas Jefferson

Near Great

5. Theodore Roosevelt

6. Woodrow Wilson

7. Andrew Jackson

8. Harry S. Truman

Above Average

9. John Adams

10. Lyndon Johnson

11. Dwight D. Eisenhower

12. James K. Polk

13. John F. Kennedy

14. James Madison

15. James Monroe

 この偉大な大統領が、強力な大統領、強力なリーダーであること、強力なリーダーが評価が高いとして、では強力な大統領は憲法に許されているか。それはアメリカのデモクラシーに沿うものであるか、という質問が与えられる。

憲法は、議会と大統領との力の均衡のためのチェック・アンド・バランスを信じたものであるが、200年を経て、大統領の持つ力は、その武器の破壊力の大きさと、アメリカの世界における大きさと、大統領の扱う問題の拡大によって、膨大なものとなり、議会の力とは不均衡な大きさになっている。

このことをどう考えるか。

教科書はそうした設問をしていく。

そしてそれらに絶対的なひとつの解答はないこと、そして「あなたが大統領になって考える」ことが有り得るのだと教えるのである。

この授業の中に、アメリカ社会がいかに人々の中から、次代の中から、リーダーを育てるかを考えていることがわかる。大変な役割を負っているが、それがいかに大切か、そしてあなたもなれるかもしれない、あなたが変え、あなたが貢献できることがあるということを、教えているのである。

ワシントンとリーダー

リーダーシップはトップの地位位階に立つということとは必ずしも関係しないし、また権力や公的なる権威ということではない。しかしリーダーは社会的エリート−−何らかの意味で優れた、選ばれたる者という意味において−−様々な具体的な分野において現実に行動するエリートの中にいるものである。そしてまた様々なリーダーのタイプがある。アメリカ人はチャーチルやガンジー、ジョージ・マーシャルなどをすぐ挙げるだろう。なににおいても、歴史的に見て、トーマス・ジェファーソンはもっともアメリカ人の多数から合意されるリーダーである。多分アメリカ人は建国の父たちを最良のリーダーシップを取ったものとして信じている。

3. 教育とリーダーシップ

「治力」の形成

人々が国を造り続けること、その作業を常に続けることを人々に課したことがアメリカの発明において最も優れたことである。アメリカの成功は、その社会が不完全で造り替えていくものであり、それは人々によってなされること、人々が造り替えていくものとして、政府と制度法律を作り出し、変え続けていくこと、恒久の課題として課したことである。それは決して独善的個人に可能なことではないことを知っていたことである。すなわち国を造り、国を造り替える作業にどれだけ多くの人々が関れるか、関わり方の方向を示し得るかがアメリカンリーダーシップに問われるものなのである。

しかしこのアメリカン・リーダーシップが200年以上のアメリカのデモクラシーの経験を経て、今最も特徴的であるのは、それに求められる、「知力」と「治力」とも言うべき能力を、強力に「インテグレート」させる能力を持つものであることが明瞭になってきたことであるだろう。

この特に、「治力」ともいうべきものを持つことをアメリカの教育は意図してきた。これがデモクラシーの教育の特質であると言えるように思う。

●デモクラシーと市民教育の重要性

ジェファーソンの優れた先見性はアメリカの国家とその制度が有効に機能するためには、公教育と市民教育が不可欠でありその重要性を説いたことである。

こうした市民教育の原点は、ジェファーソンの「社会の究極の力の安全な受託者は人々そのもの以外にはない。そしてもし我々が、彼らはその自由裁量を持つ監理統制を実際に行使するには十分に高揚啓発されていないと思うならば、その治療法はそれを彼らから奪うことではなく、彼らの自由裁量とすることである」ということにある。さらにはジェファーソンは市民が政治に参加するようにすること、「すべての市民を市民にとって身近で興味の持てる自治体の仕事に関わることによって政府の現役メンバーとすることこそが、市民をその国の独立ということとその共和国憲法へ強い関心を持たせるだろう」として、市民の統治への参加、そして継続的な社会の改革、更新を、強い国家の根幹をつくるものととらえていた。これが公共教育の根拠となるのである。

ジェファーソンはバージニア州において初等、中等、高等の3段階にわけての教育制度をつくったが、ことに共和国市民の徳を養成するうえで初等教育での徳育を考えたといわれる。「ジェファーソンによれば、小学校では読み書きと算数が主として教えられるが、それと並んで「道徳の重要な成文」と歴史も習得させられる。前者の「道徳の重要な成文」は幸福をいかに実現しうるかを判断する基礎となり、幸福には良心や健康、仕事、それに正しい目的を追求する自由が不可欠なことを悟らせることが期待されていた。また後者の歴史の勉強については、過去の知識ばかりでなく未来を判断する能力も身につけ、政治家の邪悪な野心を見抜いて専制の危険を未然に防げるようにすることが期待されていた。(総合開発研究機構、アメリカ建国の理念と日米関係、第1章」

一般的にアメリカ革命の理念は自由主義といわれるが、政治的人文主義(Civic Humanism)の系譜にあるという考え方が近年の主流となる見方となっている。これはギリシャのポリスを政治のモデルと見て、政治の目的を世俗社会の中で公共善、すなわち公益を実現することととらえるものである。共和国という言葉は文字道りこの公共善を意味しており、公共善を実現するには専制が発生するのを予防して、市民の自由や権利が擁護されねばならない。

この政治的人文主義が自由主義ともっとも違っているのは、市民の自由や権利の擁護といっても、市民自らが政治に参加して専制の危険に自ら立ち向かうことを重視している点である。そうするためには市民は私利私欲に拘泥することなく、公益の実現の為に私益をも犠牲にする徳を持っていなければならない。(アメリカ建国の理念と日米関係より)

この政治的人文主義は共和国の存続が市民の徳に懸かっているとみなしていた。バージニア権利章典には、「自由な政府もしくは自由の恩恵は、公正、中庸、節制、質素、および徳を堅く保持し、根本的な諸原理を頻繁に思い起こす以外には、いかなる人民にも確保されるものではない。」

ジョージ・ワシントンが初代大統領に選ばれたのは、ワシントンが独立戦争の英雄だからであったばかりでなく、寡黙で愛国心に富み、公共の問題を私心を交えずに取り組む、共和国の市民の模範になるような人物だからでもあった。

一般市民がどれだけ自発的に共和国の市民にふさわしい徳を身に付けようとしたのかを、正確に把握するのは簡単ではないが、−−−ベンジャミン・フランクリンの例は示唆的である。すなわち、彼の「自伝」で有名なようにフランクリンは自らの修養のために十三の徳目をどれだけ励行できたのか毎日欠かさず自己点検するように心掛けた。その十三の徳目とは、節制、沈黙、規律、決意、節約、勤勉、誠実、公正、中庸、清潔、沈着、純潔、謙遜であり、ウェーバーが指摘したようにプロテスタントの宗教倫理に由来する徳目からなっていた。ウェーバーはこのような世俗化した宗教倫理を励行することによって、主観的な意図とは別に資本が蓄積され、資本主義の発展する基礎が築かれたとみている。

バージニアの権利章典で市民の徳として挙げられていたのは、公正、中庸、節制、質素の四つであった。またペンシルベニアの州憲法であげられている徳目も、公正、中庸、節制、勤勉、質素の五つである。

(以上は総合研究開発機構によるNIRA研究報告書「アメリカ建国の理念と日米関係、第1章より転記、)

ちなみに振り返ると、ジェファーソンが独立宣言を書いたのは1776年、合衆国憲法1778年、人権憲章は1791年に制定された。その90年後に日本の近代国家誕生期、明治維新(1868年)となり、新国家建設がなされた。大日本帝国憲法:明治憲法(1889年)が制定される。そこでの強力な国家への希求と基盤は強力な軍備と武力に置かれていた。そして閉ざされた政治決定とリーダーシップにおいて国家の拡大が正当化され、第2次世界大戦そして敗戦へと進むことになる。

敗戦後の日本の国造りの指針は1946年の新憲法に示された。これはアメリカン・デモクラシーをモデルとする政治社会制度を構築しようとしたものである。今、憲法を検証する作業は重要であるが、それは日本のデモクラシーの検証という作業と努力を不可欠とする。

この理念のもとに長いデモクラシーへの模索は、「知力」と「治力」を、市民レベルとリーダーシップにおいて向上させたと考えることが出来る。この仮定はまだ不十分だが、知力、すなわち知識や学力の向上は非常に重視されるし、一般的に受け入れられるが、社会の発展においての、「治力」すなわち自律から始まる自治能力、そして国家統治の能力をどう形成するか、その教育は学力向上の教育と同時に、しかしいくつか異なる理念と手法をもって、考えられなければならないといえるだろう。

4. 学校教育、市民教育とリーダーシッププログラム

● 「治力」と「市民力」

上述したアメリカの政府の学習とその中での大統領職の説明は、中等教育の中で、「治力」形成を目指す、デモクラシーの教育の事例と見ることが出来、それは同時にリーダーシップへの準備教育でもある。アメリカがリーダーを必要とし、市民を大統領として何をすべきかを考えさせるものとして「治力」の基礎をつける学習プログラムといえるのである。これは社会科であるが、ことに市民教育、シビック・エデュケーションとして独立した中等教育および高等教育のプログラムもある。また学校に限らず、広く市民教育として市民社会の中に存在する。いわば「市民力」形成のための市民教育プログラムがあり、それらはノンプロフィット組織などによって開発され、様々な教科、教材が、公立および民間私立学校や、自治体の社会教育プログラムとして採用される。そこには「デモクラシーは見物するための壮観なスポーツではない、これは市民の積極的な参加がなければならい。自由にとっての最大の脅迫は、なにもしない鈍く不活発な人々の存在である。」ことが常に警告としてある社会なのである。

市民教育に使命をかけるノンプロフィットの財団組織に掲げられた、組織の信条、信念を下記にあげるが、これは明瞭にアメリカの市民教育に対する考え方、アメリカの信念を示しているといえるだろう。

1. 良く知識を持ち情報を得た、知らされた市民と、熱心に関わる人々の存在こそ強いコミュニティーと力強いデモクラシーの基盤である。コミュニティー全体の参加は必須であり、誰も参加から外されてはならない。

2. 無知、シニシズム、皮肉冷笑、諦めなどは、我々の政府の民主的システムにとって最も問題であり常なる脅威である。

3. 市民社会とコミュニティーに関わるに必要な知識の獲得と実践ということは、人々の個人の生涯をかけての関与といえるものである。

4. 一人の個人、市民が、何らかの違いと変化を創れることが出来る。

( The Close Up Foundation, www.closeup.org/mission)

またもうひとつの市民教育機関はその組織のプログラムの基本的目標を次のように掲げている。すなわち、学生が、

1. アメリカの憲法を基としたデモクラシーの制度と拠ってたつところの基本的原則と価値を理解すること、

2. 有効な、責任ある市民として参加するための技能スキルを身につけること、

3. 決定し葛藤抗争を扱えるように民主的過程と手続きを用いることへの熱意を持つこと、などを助けるものである。

こうした市民教育とリーダーシップ教育は、高校における、コミュニティー・サービスの課程単位などに結合されていると見て良いだろう。コミュニティー・サービスは、相当に一般化されており、ワシントン周辺では、30時間ほどが高校卒業のための必須課目とされている。これはコミュニティーでのリーダーシップをとる訓練として考えられているが、ただし現実にはそれほど確固としたプログラムとして出来上がっているとは言えない。多くの場合、生徒の関心のある事柄において、地域コミュニティーのノンプロフィット組織で、ボランティアとして働く経験が中心である。しかしここで発揮されたリーダーシップは、大学の選考の重要な要素になっていることは事実である。大学が、著名なものを含めて、学生の選択に、知識量、学力だけでなく、リーダーシップ能力、すなわち「治力」を選考の基準に入れているといえる。

アメリカは、「治力」と「市民力」がアメリカのデモクラシーを保持し発展させるために不可欠のものとして、その力の形成のための教育をしてきているのである。

5. 起業家教育

資本主義と市民社会

アメリカの経済システムは個人、集団による土地、工場、資源、資本等の生産が民間に所有されるところの資本主義に基盤を置くものである。1776年、独立宣言が署名された同じ年にAdam Smithの The Wealth of Nations が出版された。これが近代資本主義の時代の幕開けになるが、これがアメリカのコロニストたちにとって信奉される。独立の精神:生命、自由、そして個人の幸福の追求の原点は、個人の所有の自由と経済発展の自由にあり、ここに近代資本主義への展開が民主主義との両輪を組むのである。

アメリカの資本主義の発展において最も大きな時代1900年代初頭から1930年代までアメリカの資本家たちは次々に大型の財団を造った。これら民間財団の持つ力は非常に大きく、これらフィランソロピーと称されるものはアメリカのデモクラシーへの出資であり、投資であり、ここにアメリカ資本主義と市民社会の具体的な経済関係がある。

今世紀最大の資本家といわれる、Bill Gatesは1994年にBill & Melinda Gates Foundation を造ったが、これは 近い将来に世界最大の財団になると考えられる。

これら財団が社会の「コーズ」に関わり、社会の問題の解決に関わろうとしてきたことは、アメリカのデモクラシーの顕著な現れであった。フィランソロピストといわれるアメリカの資本家は彼ら自身が起業家であり、リーダーであるわけで、資本主義と企業の倫理を含めてアメリカの資本主義の思想に長くあるものと考えることが出来る。日本の資本家と企業はこのことが全く見えていなかったと言えるだろう。

● 創造性とリスクを取る精神の称賛

アメリカ社会の強さのひとつは、あらゆる分野での創造性と開拓、新しいものへのエネルギーの強さにある。それは家庭を含めて、教育の場でも、常に、強い個人をつくることと、個人の可能性を最大限に延ばすこと、違いをつくること、創造的であることへ、称賛を惜しまないということがいえる。どの分野でもよい、自分が好きなこと、やれることにおいて、今ひとつ自分が主導性を取れるものがあるか、既存のものから一つ創造性を加えて、違いをつくれるか、を親と教師は子供に訊ねるのである。そうした個人の創造性の開発が、人生の幸福の追求であり、そしてそのことが社会の発展に貢献できるのだとアメリカのデモクラシーは教えるのである。そして、創造性は、同時に、リスクを取る、危険を冒すこと、失敗を恐れないことでもあるのだと言い聞かすのである。

これはアメリカ社会が多元的な力の重要性、様々な知識の重要性を知り、それを育む文化風土を作ってきたということである。破壊的な創造性も含めて、その多様性と創造性の共存こそがアメリカの文化なのである。

新企業を起こす方が、既存の大企業に入るよりも面白いと考えるのが、アメリカのトップの大学の卒業生である。そしてそれを称賛し、かつ様々なその努力と成功の見返りがある社会である。それは個人の主導性:イニシャティブが活きる社会なのである。これは既存の権威を重視し、安全と調和、規制の遵守を強いる社会からは非常に生まれ難いものである。

この一般的な創造性、創造力の形成は多分、中学から高等学校、十代、ティーンの時代に最も高く生まれるものであるのではないかと考えられるが、これは個人の人間性、個性の形成の時期でもある。ここにどれだけの創造性の開発と個性の形成が可能か、その可能性と機会を与えられているかは、多分非常に重要な問題であるだろう。ここでどれだけ自由な発想が出来るか、個人の才能を延ばせるかは創造性において極めてクリティカルなことといえる。 アメリカの高校の教育は非常な問題を抱えながら、しかし、基本的に個人の創造性を育むことにおいて、失敗していないといえる。高校の教育については創造性という観点から分析する必要があるだろう。高校の「学力」低下は問題とされていることであり、「知力」「学力」と「創造力」の形成との関係はまた大きな学問的課題であるのでここで触れる積もりはない。

一方、ノーベル賞の数から見ての、アメリカの創造力の強さという点では、アメリカが移民で出来上がった、移民の力を社会に使う国であり、それを政策として取ってきたことが、すなわちこれもまたアメリカのデモクラシーというシステムが関って、優れた創造的頭脳をアメリカに引き寄せてきたことを考えなければならないだろう。創造性におけるリーダーシップもアメリカが優位を占めてきたことは確かであるが、これは当報告の直接の対象とは考えないので他の機会を見て検討してみたい。

6. 多元社会のリーダーシップ

国の向かう方向への議論と合意の形成の努力なしに、リーダーシップを語ることは不毛であり、リーダーを待望することは危険である。残念なことに21世紀は無知と怠慢によっては個人も国家も持続的な発展はもとより生き延びていかれないだろう。人類の歴史が長く積み重ねてきた文明と文化によって、人々は豊かな自由を享受出来るようになった。それを拒否するのでないのなら、人々はそれを保ち、さらに豊かなものとする、さらに多くの人々のものとする責任も果たさなければならない。それが市民社会というものであるだろう。その市民社会の成長と発展の過程を押し進めるために、あらゆる場で、市民の努力が必要であり、そこに優れたリーダーシップが変ることなく求められる。

自然発生的国家であろうとも、それは変質を遂げつつ、自己革新を遂げつつ、時代と歴史を造り続けなければならない。世界の中に生きる存在する国家として地球の市民として、人類の文明への参加が必要である。

私たち日本人は豊かな自然発生国家の、島国としての利を得て、育んだ文化を持って、世界に貢献出来る。このことに優れた人的資源を世界に生かすようなリーダーシップこそが求められる。

生命、自由、幸福の追求ということが、21世紀の世界においても追求sれつづけなければならないことを認識することが日本にとって、日本人にとって大切なことである。自由、政治的、経済的、個人的なる自由は今人類史上最も多くの者の者となっている。恐怖と欠乏からの自由、そして信じることと表現することの自由というルーズベルトの四つの自由はかつてないほどに多くの人々n所有されている。

この世紀が我々に教えたことは、自由は脆く苦い教訓を伴っているということである。この進歩は直線的でなく、歯止め装置でもなく、むしろ長い破滅的な逆行にも行きかねず、そして人間性の完全性という考えと達しうるユートピアという考え方が最も危険な考え方であることがこの世紀から我々が学ぶ最も重要なことである。

ようやくに勝ち得た自由というものは、そして未だこれからそれを勝ち取ろうとするものには、自由は魔術によって得るものではない。それは、ドグマ、教義、そしてあらゆる種類の間違いとの確信といったものの御用達人から保身する価値を持つ自由である。

●政治的リーダーシップと政策リーダーシップ

「知力」形成:政策リーダーシップ

「治力」が政治的リーダーシップを説明するものであるとすると、さらにここに近代統治の重要な要素として「知」:知識と情報を見落とすことは出来ない。統治は知識と情報、科学の発達と不可分には出来なくなった。ことにこれは統治における「政策」ということに知識と情報が不可欠であり、統治は「よりよき」政策の選択に大きく関っているからである。そして政治の中心的機能を政策の選択ということに明瞭に移行させてきたのがアメリカのここ半世紀の、これもまたデモクラシーの成果である。これには政治と経済が密着につながってきたこと、政策の重要性が統治に入り込み、経済学が統治に入り込んだこと、政府を考えさせる仕掛けをもったこと、合理性の重要性が何よりも政府に意識されたこと、など、この変化の要因と動機、契機は多々ある。ここに「知力」がよき統治に不可欠であるという社会的合意がアメリカ社会にあるということを指摘しておかなければならない。

それと同時にもうひとつ、アメリカ社会に、絶対と完璧、唯一といった考え方を放棄せざるを得ない、かつ我々は「分権分担」分かち合い社会にいる、分かち合うことでしか生きられない、という認識が、特に、20世紀の終了と21世紀への生き方への信念の中心に入ってきたことが重要だろう。すなわちどのような一人の個人、組織にも全責任がかけられない、その意味で誰も一人で全責任を負うことのない社会になっている。社会的問題や原因において絶対的権威とか唯一の権力、全権、全知のない世界である。それがデモクラシーということである。様々な複数の組織や機構が目的、活動、資源、権力、そしてまた権威を、集約した結果を達成するためにまた損失を最小限にするために、分かちあわなければならない。そしてこれは今のところ、もし我々がこの世界に生き残り、繁栄し、そして次代の子供たち、孫たち、その子供たちが我々の世界をよくする我々の能力の便益を被るためには、最善の方法であり社会制度である。われわれはこの分かち合い権力という中でより効果的に考え、行動するという方法を考えなければならないのである。この分かち合いの中で、社会的指導者リーダーはどのようにある共通の公的コモン・グッズを築き、選びとるかを考えなければならないのである。この分かち合い権力現象は多数の個人、組織、機関を抱える公的なリーダーシップの在り方を示すものである。ブライソン(Lyman Bryson)は「民主的社会の目的は偉大な人間をつくることにある。−−民主的方法は,男女のその本質的な能力を最大に保ちかつ開発するものである。」として分かち合う社会においてのことに知力をもとにした、政策形成に関わる、リーダーシップの重要性と可能性を指摘している。

アメリカは20世紀最後に政策アナリストと言われる多様な経歴を持つ、様々な顔を持つ、アメリカ知識人のひとつの新しい専門家集団を作り出した。こうしたひとについては、シンクタンク論および公共政策論や政策形成論とか学問的研究の対象にはなり難くなかなか注目されることがないがこの専門家集団はある意味で「知力」を代表するリーダーである。

政策アナリシスが学問と社会統治を繋げる科学であり、シンクタンクが知と統治を繋げる装置であるとすれば、それを担う繋ぎ手、アメリカの多様な声の発声主体:歌い手は、政策アナリストたちである。

シンクタンクの中にいる政策アナリストたちは、政策科学や政治学の「学者」「科学者」でもなく、「政策実務者」「担当者」「公務員」「役人」「評論家」でもないが、そのどれかであった、またはそのすべてになれるといった人材であり、彼らは自ら政策アナリストと称することを好み、一般にもそう言われる。この専門家集団の台頭は、アメリカの公共政策分析研究の学問領域としての確立と、政策形成過程の発展とあいまった、比較的近年の現象といえる。このいわば新しいプロフェッショナル像はアメリカ社会とその統治を考えるにおいて重要な意味と役割を持つ。大統領に代表される政治リーダーと政治(ポリティカル)リーダーシップとは独立して、しかしそれと密接な関係を持って、強靭なる政策(ポリシー)リーダーシップが存在することが、アメリカのリーダーシップの構造の特色といえる。

アメリカのことにクリントン大統領のリーダーシップにとって、この優れた強力なポリシー・アナリスト、ポリシー・リーダーシップの存在は非常に大きい。リーダーの「知力」は不可欠であるが、それは到底一人の人間がその高さの極みを持てるものではない。「知力」はまさに量としてもなけれがならないのである。

アメリカの「知力」ことに政策を大統領に提起することが出来る、ポリシー・リーダーシップの存在は、独立政策研究機関とシンクタンクの存在と同時に、アメリカのデモクラシーとリーダーシップにとって非常に重要である。これも他の機会に分析する必要があると思う。例えば次のようなことが考えられる。

政府に考えさせる:アメリカ社会の政策リーダーたち:

外交評議会: MORTON ABRAMITZ (外交政策) カーネギー研究所: MAXIM SINGER (科学技術政策)

ブルッキングス研究所: HENRY AARON(医療政策)

連邦準備局(OMB) : ALIS LIVLIN(公共行財政政策)

URBAN INSTITUTE(CBO): EUGENE STEUERLE(税制政策)

UNDP(世界資源研究所): JAMES G. SPETH(環境政策)

21世紀:アメリカの確信と展望−−世論調査に見るアメリカの価値観

20世紀を終ろうとする今、アメリカ人は経済の先行きを多少不安を持って見つめながら、しかし、アメリカが次世紀をうまく生きていかれるだろうという楽観的展望と自信を持っている。そして「やれる」「出来る」というアメリカ精神、楽天性と挑戦の心を持ち続けるだろう。

ウォール・ストリート・ジャーナル誌とNBCの1999年6月と9月の世論調査はアメリカの価値観の現在を分析している。この中で、現在のアメリカ人像とその問題意識、そしてこの過去100年と次の100年についてのアメリカ人の意見をきいている。

●政治的傾向:調査はアメリカ人を「レフト」、「ミドル」、「ライト」との3つに分類している(表1)この規準としては次の6つの項目をあげて、どの立場をとるか、そして以下の項目のうちの4つにレフトに完全ないしはほとんど賛成するものをレフト、ライトの位置に完全ないしはほとんど賛成するものをライトとし、残りをミドルとしている。

1. 教会と国家の完全分離 : 公教育での祈祷:お祈りの許可

2. 映画、TV、ビデオゲームの内容に無干渉:映画、TV、ゲームの暴力に規制

3. ホモセクシュアル差別禁止法の保持:ホモセクシュアル保護法を少なくする

4. 政府補助は公立学校に限る:私立、宗教学校への税金によるバウチャー認める

5. 銃器へのアクセスに政府規制の強化:銃器所有に政府規制を弱めること

6. 女性の中絶へのアクセスに介入しないこと:中絶の機会を規制する法律強化

この設問は内容それ自体が、アメリカの現在の中心的政策課題を示している。

この分類からは、レフトが成人の25%、ミドルが52%、ライトが23%としている。これを政党でみれば、民主党およびインディペンデントの支持層はレフトが多く、共和党支持層はライトが多い。しかしいずれの党派もミドルが圧倒的に多くを占める。

レフトに傾き易いのは、高学歴、専門職、高所得、民主党支持、そして大学教育を受けた女性である。ライトに傾くのは、ファンダメンタリスト、プロテスタント、共和党支持者、南部出身者、低所得層、大学教育を受けない女性たちである。

ミドルは、穏健派、子持ちの郊外居住者、ブルーカラー、大学教育を受けない男性、非ファンダメンタリスト、非プロテスタントである。(表1、2)

● 社会にとって重要なことは何か。

社会の最大の目標についてレフトとライトでは異なる考え方がなされている。

伝統的価値への尊敬を喚起することはライトにおいて84%が伝統的価値への尊敬が最も重要な社会の目標と考える。これに対して、レフトは56%が差異を許容する価値を奨めることを大切と考えでいる。

ここに伝統的価値への尊敬と、多様性と差異への寛容性を選択としてならべていることが興味深い。これはアメリカ社会が近年の歴史のなかで、あまりにも多様多元社会となったことへの、いわば「アメリカの」ナショナリズムの復権があるといえるだろう。

ここ10年から20年の間に社会に起こった現象と変化で何が最も問題だと思うか

あなたにとって気がかりかについては、37%が権威と高齢者に対する尊敬の念の欠如、13%が TVや音楽プログラムの内容、11%が 未婚の10代の母親の数、卑猥、冒涜的な言葉の氾濫、7%が離婚率、6%が働く母親の増大を挙げている。

いずれも伝統的価値観から離れて近年に社会が許容してきたアメリカの文化である。

また次のような社会的文化的な項目の中で、何がもっともあなたにとって重要かという設問で、若者の暴力が58%と高い関心を集め、其の次に、インターネットのポルノグラフィーとプライバシー問題に38%、アフリカ、アジア、ラテン・アメリカからの移民は19%、遺伝子組み替えの医療研究に16%、ギャンブルの興隆に10%となっている。

社会的課題についてどのような法律や規制を望むかという点では全体の76%が貧困、耽溺、家庭内暴力等を扱う宗教団体に資金を提供することに賛成している。また64%は公立学校において宗教的価値を基盤としたモラル教育と祈祷を許すことを支持している。またインターネットの内容で性的なものの規制をはかることに60%が支持している。47%が 人間の遺伝子組み替えの医療研究を禁止すべきだと考えている。また44%が 移民の制限を支持する。(表3)

この時期においては調査は次のような人間をモラルの高さで判断している。彼らは丁度調査時期に名前が頻繁にメディアに挙げられたということから出ており、4ヶ月を経るとすでに時の人ではなくなっているので、余り長期的な意味をまたないが、アメリカ人のひとつの思潮が現れている。

●モラル:公人としてモラルを評価すると、コーリン・パウウェル(80%)、ジョン・グレン(71%)、エリザベス・ドール(70%)、ジョージ・W・ブッシュ(57%)、アル・ゴア(52%)、ヒラリー・ロドマン・クリントン(45%)、パット・ロバートソン(35%)、ビル・クリントン(15%)を得ている。

●100年前と100年後

100年後に何を食べているか?: ハンバーガーをまだ食べていると思うものが26%。ピザ、朝食のシリアル、ヨーグルト、アップルパイ、べーグル、それらみな、、、。

多分アメリカ人は食べ物についての創造性にかけているのかもしれないが、いずれにしても強い合意はない。仕事をしているか?: 仕事と労働においては、この来る100年において、多くの人間が人生の70代まで働くようになると考え、また半数が女性が男性と同じ給料を取るようになると考えている。39%が週4日制となると考える。およそ半数が退職は人生において遅くなるものと考えている。(表4)

●アメリカは?:アメリカが次の100年、唯一の主要なパワーであると考えるのは28%、61%が力を分かって、シェアしているだろうと考えている。

20世紀を通じて、アメリカは「出来るーやる精神」(CAN−DO スピリット)の楽天的精神を持ってきた。この精神がこれからも増加すると考えるのは34%、変わらないだろうとするのが38%、減少すると考えるのが22%であった。

モラルの低下と経済力の低下のどちらがアメリカの力にとっての脅威となるかについては、モラルの低下が74%と経済低下の20%をはるかに上回っている。アメリカへのテロリストからの攻撃と軍事抗争の対では、テロリストの脅威の方がアメリカにとってより大きな問題と考えるものが63%を占めている。

● これからの1000年に、81%が主要な動物の種が消滅することが有り得る、76%が疫病が起こり、多くが死ぬことが有り得る、73%が即刻長距離旅行が可能になる、

43%がキリストの再現がある、23%が人類が滅亡することが有り得る、7%が人間は不死身となるかもしれないと考えている。(表5)

● 生活は良くなるか、悪くなるか?

今までの100年とこれからの100年では生活がよくなると思うものは55%の過半を占める。悪くなると思うのは33%同じが7%である。

● アメリカの優越性に挑むのは誰だと思うか?どの国と地域がアメリカの世界における力の地位に最も大きな挑戦をすると考えるか、については、50%が中国を挙げ、22%が中東、8%が日本、6%がロシア、同じく6%が EC、2%がラテンアメリカを挙げている。今のアメリカの関心の所在を示している。

● アメリカの指導性は?

前世紀においてアメリカが指導的であったところがこれからもリーダーであり続けられるか、強くはあるがリーダーではなくなる、普通に留まるか、普通以下になるか?

映画、音楽、TV、ポップカルチャーの領域では今までと同様に指導的地位を持つと考えるのが60%を占めている。軍備においては55%が同様、しかし強いがリーダーではなくなるというのが25%である。技術においては46%がが指導的地位にあるだろうと考えているが、強いがリーダーではないだろうとするものが34%となっている。世界経済においては指導的に留まるというものが44%であり、創造性、発明においても44%が主導的地位に残ると考えている。(表5)

● 何を成し遂げたか?

アメリカはこの20世紀に何を成し遂げたか?成果とリーダーを評価する。最も顕著な、最も重要な、又は偉大な事業と人物は?

科学の発見ではDNAが多くから支持される。大統領ではルーズベルト、スポーツではマイケル・ジョーダン(バスケット・ボール・プレーヤー)、成し遂げた事業としては第2次世界大戦、ビジネス・リーダーとしてはビル・ゲーツとヘンリーフォード、そして映画では風と共に去りぬがトップである。(表6)

ルーズベルトはアメリカ人にとって20世紀を通しての最良、偉大な大統領である。成し遂げたことにおいては第2次世界大戦での勝利、接近して世界最強の経済を造ったこと、人を月に到達させたこと、人種差別をやめたことなどがあげられている。

● アメリカで最も悲観的な見方の持ち主は、宗教ファンダメンタリストたちであり、政治的にはパット・ブキャナンに代表される。彼らはアメリカが経済的にも政治的にもあまりに世界に存在を大きくし過ぎていることを批判する。

しかし若い人を含めて、一般は楽観的といえる。アトランティック・フィランソロピック・サービス財団の、政治学者でもあるジョエル・フレイシュマンは「われわれは偉大な強さを持っている。この強さには軋轢と敵意を最小にしつつ、さらに多人種混合社会を創り出すという驚くべき能力が含まれている」と指摘する。

だがアメリカのヘゲモニーが 今後も続くという楽観性は揺らいでいる。アメリカ人はより客観的になっており、世界はより競争的であり、そして力を分かち合い、アメリカだけが全てをリードすることはないと考えている。

と同時に、アメリカ人はアメリカが世界の事象にあまりに関わり過ぎていると考えており、孤立分離し過ぎているということより、インボルブしすぎていることを気がかりとしている。しかし、孤立主義的、ナショナリスト的な反応もまたのこっている。政治的、経済的によりも、アメリカ文化の繁栄に、若者を中心として強い確信がある。(The Wall Street Journal, American Opinion, Thursday, September 16, 1999)

アメリカン・デモクラシーの最大の業績成果は、そのシステムが、常に未完の過程であることを確認し変革改革を継続させる能力を持続させつつ、人類の発展の根源である、人間の個人の創造性と知性を最大限に啓発し、それを社会とその統治に動員し活かすことに成功しつつあることである。そのシステムが、完璧な完成型社会像を持つイデオロギーではなく、社会を動かし続ける、ダイナミズムの方向と動機を与え続けるものであり、それが人間の、生命、自由、幸福の追求という、今のところ最善の普遍的価値観の追求にとって最も適したシステムであることを示している。このデモクラシーへの絶え間ない検証と追求の様々な努力が、社会の、市民の、そしてリーダーの「知力」と「治力」、民度の高さを造った。アメリカがいかに問題であろうとも、そのリーダーがいかに問題であろうとも、またその企業活動が問題であろうとも、−−そして確かに問題であるのだが−−それを指摘し、他の解決への道筋を示すには、このアメリカのデモクラシーが生み出した、「知力」と「治力」に対峙出来なければならないのである。

アメリカのリーダーシップはまさに21世紀の世界にとって問題である。エコノミストはこの点を指摘している。アメリカはこの21世紀の世界を率いるものとして偉大な リーダーを生み出すという困難に挑まなければならない。

これはアメリカが世界を率いるという人類史上の歴史的挑戦を受けられるかが試される。にもかかわらず、そのための特別な用意を世界ができるわけではなく、今のアメリカにしかその資源はない。

「アメリカはビジネス、コマース、コミュニケーションに独占的地位を占めた。其の経済は世界で最も成功している。その軍事力は後に続くものがない。しかしその巨大さの故に、今それはどう振る舞うべきかがわからない。一人で思う侭に世界の舞台を占めてよいのか、それとも喜んで、その力を減じ、他と力を分かちあるべきか?

アメリカは一主権独立国家としてその利益によって立つべきか、ないしはその自分の安全に関する限り、水も漏らさぬものでない同意を拒否すべきか、ないしはそれでも仲間を満足させるために批准するか。

孤立主義者は真の意味では存在し得ない時代だが、最小主義、ミニマリストは国内的にも対外的にも国家の介入を可能な限り小さくするという考えガあり、より多くはユニラテラリスト、特権のひとつが世界において拘束のない自由に振る舞えることであると考えている者が増えていることである。

世界に向かうこと、背無くことでなく、は、一般にアメリカが受け入れてきた。反対に多国籍自由貿易主義はそれが自明のこととはならなかった。 多国籍機関はしばしば官僚的であり、鈍重で非効率的である。そこでしばしばアメリカはこれらを無視し、いじめ、拒否した。

アメリカの仲間はアメリカが平和と善のための巨大、公平無私の力となることを望むが、しかしアメリカは普通の国としてまずその国益が優先するのは当然である。ソビエトの崩壊後、何がアメリカの利益であるのかを誰も考えていない。そこでユニラテラリストは自由に振る舞うことがアメリカの優先的なものと考える。事実、アメリカのプライオリティーは世界は安定し、よりデモクラティックで平和であればよいというものである。

平和のためにはアメリカの軍事的卓越が良いとするする考えがある。これは実は意味はない。アメリカはその仲間との協力していく必要がある。そしてアメリカが関心がなくとも、金と人材を協調の場、継続的な交渉とコミュニケーションに割かなければならない。一人で行く事は決してよいことではない。アメリカの自由契約性というものは、アメリカがそのデモクラティック・バリューをその友人達と分け合うからに他ならない。しかしユニラテラリズムはどこからであれ危険である。

アメリカの一般大衆は外で何が起こっても対して気にもしないだろう。しかしアメリカが多国間のもつれを拒否すれば、とても自由ではあるが、しかしとても孤独であろう。そしてアメリカは誰も率いる者のないリーダーとなり、その孤立によって、世界を不安定にする。アメリカの独立はよい。しかしそれはより大きく、賢くあるべきである。(The Economist, America’s World, October 23rd 1999)

日本の課題

日本の今の課題は社会における「学力」「知力」「治力」「創造力」の衰退と脆弱さをどうするかということにある。それはリーダーをいかに育てるか、日本がいかに21世紀のアジアのリーダーとなれるかといったことより、もっと根源的な、日本の国としての存在に関わることである。すなわち国としての一体性をもちえるか、「国のかたち」をなすことが出来るか、世界のなかでの存在の「場」を得られるかにかかっている。「国のかたち」をなすことは、しかし、君が代と日の丸を掲げることによっては出来ない、そして君が代と日の丸をかかげることで、国のかたちを示すことが出来ると考えることが、日本の「治力」と「知力」、そして「創造力」の弱さと衰退を世界に示したということを日本人は知る必要がある。

ではこの衰退を止めよう、さらに再興、復活させようとする合意があるのか。ことに学力の回復は手段があるだろう。「知力」の回復はこれも制度的に可能である。しかし「治力」は殆ど存在しなかったから、新しく形成しなければならない。

学歴競争から真の実力競争社会にするという、昨今の教育論争、平等教育の弊害、エリート教育の復活論争(それを日本の民主主義教育として批判する論争)は、強い国家という国家主義の復活と容易に結びつく。しかし国家主義の選択は、国家の衰退につながること、すなわち、国民の「治力」「知力」「創造力」を高揚しない、高めない思想であることをよく認識しなければならない。デモクラシーの追求が今取り得る最善の道であること、そのためのシステムをひとつひとつ考え、作り直し、創り出さなければならない。

それは、伝統と文化の継承、精神性と日本的価値観に依存することでは出てこない。科学と情報の発展は単なる伝統と精神では対応出来ない人類社会、世界を生み出している。日本人は今、すべての資源と努力を傾けて、国家理念の検証と、「知力」と「治力」の開発、鍛練に臨まなければならないだろう。

今後の展開のために:

当レポート:「リーダーシップ−米国の理念と教育」は、そのテーマの大きさには到底追いつかない最小の期間と規模のものであったが、これは今後いくつか日本にとって有効な政策研究課題を考える契機とすることが出来ると思う。

21世紀における民主統治と社会にとって、「国力」を形成するのは、社会の理念の明確さとそれを支える「知力」と「治力」そして「創造力」にあるだろう。強い社会というものは、軍事力だけでも経済力だけでもなく、「知力」「治力」「創造力」を統合するリーダーを持つことが必要となる。それは限られた個人に期待することではなくその社会の持つ人的資源を最大限に活かすことによって生み出される。

社会はそれゆえ「知力」「治力」「創造力」を育てるシステムを必要とする。そこに教育がある。

アメリカの「治力」の形成においてはタウン・ホール・ミーティングに始まる、コミュニティーとその自治の歴史が強い影響を及ぼしていると考えるべきであろう。

そして教育もまた自治の重要な一環として、地方政府と地域コミュニティーに任されてきた。アメリカの「治力」形成にはすなわち教育と自治の関連を考察する必要があるのである。

日本は今、その教育を見直さなければならない。「知力」(学力のみでなく)の強化のためにはことに高等教育、「治力」と「創造力」のためには中等教育(中学高校の教育)の在り方が問い直される必要がある。

「治力」形成の手だてとしてシビック・エデュケーション、市民教育、を中等教育の教科書と教科内容から、ことにリーダーシップを育てるという観点から調べ検証することも有効であろう。

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